3.11

多くの人が亡くなったこの日に祈りを捧げます。

今日は落ち着かない気持ちになっている人も多いと思います。私もです。
テレビは消して、静かに過ごしましょうね。

12年前。
息子が5年生でした。その日彼は風邪をひいていたので自宅で留守番。
私はトマティスのミーティングで東京駅前OAZOというビルのカフェにいました。

突然の大きな揺れ。一度目は「大きかったですね」「どこですかね」と言いながら話を続けようとしたのですが、二度目の大きな揺れ。窓から見えるかなり遠くに黒煙。火事?

さすがに大変なことであるとカフェにいたすべての人に緊張が走りました。
ミーティング中の何人かが自宅に電話。私は幸い電話がすぐ繋がり、自宅には夫もいることが分かりました。9階の自宅被害も本棚の本が飛び出したけれどそれだけだよとのこと。息子がひとりきりでなかったことが本当にありがたいと感じました。

ビルはその場で閉鎖を決め、ミーティングは中止。駅前に降りれば電車は止まっているのでどんどん人が増えていて、帰れる人は帰り、私は名古屋から来ていた先生がとにかく落ち着けるまで、と1時間ほどご一緒し、彼女の泊まれる場所が確保できたので別れ、1時間歩いて自宅まで帰りました。

途中のビルあちこちでテレビを道路側に向けて情報を流してくれていたのがありがたかったです。津波が来ているとニュースで見て、慌てて歩いて帰る道を海から離れたコースにしました。コンビニはまだ普通に開いていて、少しだけ飲み物と食べ物を買って移動しましたが、この時点ではまだ東京はわりと呑気で、電車が動くまでと居酒屋で楽しく飲んでる人たちも結構いたのです。

自宅に帰りつくと、エレベーターは止まっていました。これは3日以上動かなかったと思います。都内すべてのエレベーターが点検待ちでしたので。

9階まで登り、家族に会えた時のほっとした気持ち。
本棚からすべて雪崩落ちている本の山を見て横揺れの大きさを理解しました。
それから何度もの余震。ニュースでどんどん明らかになっていく被害の大きさ(ニュースは息子が「ずっと見ていると怖い」と言ったので、ラジオに切り替えました)。

そこから続く地震被害の本当のところと放射能への恐怖は今も全く終わったことではなく、12年なんて本当にあっという間の時間で、復興も安全対策もまだまだだと私は思います。

亡くなってしまった人たちと、残されてしまった人たちに心からの祈りを。
何か私にできることはないのかと今も考えています。

写真の東京タワーも、12年前の地震でてっぺんが曲がっちゃいました。
今は少し上の方を太くして耐震してます。