「勉強」について思う事

何年か前に書いたものです。大学院の卒業があるため2019年の9月まで家庭教師の生徒は新規募集できない状況ですが、そこを過ぎたらまた少し生徒を募集して教えても良いなと思っています。
教えることは本当に楽しいからです。

「学ぶと言うこと」

勉強できない子に教えるのが好きだ。勉強できる子は自分で解けるから教えていても当たり前すぎて面白くない。解らなくて困って立ち止って悩んで、泣きそうになったり、怒り出したり、お笑いで逃れようとしたりして苦労している子たち。そんな子たちと一緒に勉強と言う名の迷宮を歩く事を30年以上続けている。

教えている最中に常に思い出すのは「十牛図」だ。禅の教えを、牛とともに旅する事になぞらえて、語ったり図にしたり絵にしたりして何百年も愛されているもの。わたしが最初に出会った十牛図はアメリカで出版されたものだった。ニューヒッピー風のカラフルなイラストと英語で語られる禅的思想。牛を求めて旅をするのは子ども。牛とともに歩き、時に牛を見失い、時に背中に乗せてもらって笛を吹きながら旅は続く。

できない、無理だ、面白くない、ツラい、つまらない、早くやめたい。机に向って問題を凝視している(または凝視しているフリをしている)子供たちからそんな声にならない声が伝わって来る。それに対して「まあまあ」とか「落ち着いて」とか、声をかけたりかけなかったりしながら、わたしは一緒に問題を解く。わたしはシェルパで、彼らが登山者。わたしはナビゲーターで彼らがドライバー。わたしがツアーガイドで彼らが旅行者。

身体に力が入ってしまっている時はストレッチをして身体の力を抜く。心がガチガチに固まっている時は「楽しい事」をプラスして心をほぐす。呼吸が止まりそうになっている時は深呼吸をしたり、リズム呼吸(4拍息を吸って、4拍息を止めて、4拍で息を吐いて、4拍止めてを繰り返す)をしたり、最近あった楽しかったことの話をさせる。長い道を歩くための準備運動。山登りの基礎体力作り。

幾つかの問題が複合的に絡まっているモノは、小さいステップに分けながら読み解く。長い問題はパーツに分けて進める。ダンスの振付をおぼえるように何度も同じパターンを繰り返し練習させ、飽きる直前でやめる。勉強は彼らにとって長い長い旅である。千里の道も一歩から、と思いながらわたしは彼らの旅に同伴する。

わたしは正解を教える者ではない。道の歩きかた、問題の解き方、問題を解く時の頭の働かせかたを根気よく教える。それは子ども本人が自分で自分を育てられるようになる道だから。他者の評価による自尊感情は薄っぺらいモノだ。自分で自分を正当に評価し満足して生きる人になるよう、わたしは勉強を通じて人生の歩きかたまでをこっそり指南している。

人は死ぬまで学び続ける生き物だ。発達障害の子も、LDの子も、コミュニケーションが上手でない子も、おしゃべりな子も、内気な子も、気が散りやすい子も、普通の子も、天才の子も、全ての子どもは学ぶ事に大きな喜びを感じる。それは人が元々持っている能力だ。それが上手くいかなかったとき、人生は果てしなく長くて死にたくなる程退屈なものになってしまう。子どもでも。

生きる喜びの大切な部分としての「学ぶ事」「頭を働かせる事」「問題を解決する事」。学校教育はそもそもこの「喜び」を子供たちに渡そうとしていたはずなのに、いつの間にか「できない事を無くす」「全員が同じ習熟度に達する」「落ちこぼれを出さない」と妙なスローガンを掲げて、見張ったり指導したりするようになった。そこに息苦しさを感じ、溺れそうになっている子どもがわたしの所にやってくる。

大きく傷ついている子、固まってしまった子、動けなくなっている子、怒りが収まらない子、悲しみに捕われてしまっている子。わたしは彼らのようすをみつめ、どんなふうに傷ついているのかをさぐり、何なら楽しめるのかを探し、どんなコトバなら受け入れられるのかを横で一緒に呼吸しながら学ぶ。なぜならわたし自身もかつてそういう子どもだったから。

家庭教師で来てくれた先生に1時間以上なぞなぞを出したり、最近学校であった事の話で勉強時間のほぼ全部を使ったり。中学時代のわたしは悪夢の様に教えにくい生徒であった。今の基準なら「一度カウンセリングを」とか「発達検査を受けた方が」と言われているような子ども。

何を求め、何を感じ、何を探していたのか。今なら答えは色々に出せるけれど、中学生のわたしには「解っていないという事」が全く解っていなかった。イライラするだけの体力も無く、無気力で不登校気味だけど勉強はそれなりにできる子ども。そんなわたしを追いつめずに遠くからちゃんと見守ってくれ、「学ぶ喜び」や「生きる喜び」をおしつけること無く刷り込んでくれた両親と学校と家庭教師の先生たちには心から感謝する。

そして今。わたしは一人の家庭教師として子供たちと時間を過ごす。

彼らがわたしの頭の働かせかた・道の歩きかたを少しずつトレースして手に入れ、自分一人で問題が理解でき考えられ正解まで出せたとき。彼らはその一問を答えた事に世界的規模の大事業を成し遂げたような深い満足を感じ、わたしも一緒に感動を味わう。

勉強をすると言う事は、教える側にも教わる側にも、それほどまでに感動的な事であるものなのだ。