もう14年も経つなんて信じられません。
長い時間が過ぎたのに、被害のあった場所が完全に戻ったわけでもないと聞きます。
地震だけだったらもう元通りの生活が得られていただろうにと思うと、悲しい気持ちになります。
東京で、5年生の息子と2011年の3.11を経験しました。
地震だけでも東京は流通がストップして、大変なことになっていきました。
そこに原発事故と放射能の問題が出てきて、子連れの家庭は一気にパニックに近い状態になりました。外で遊ばせていいのか、水は安全なのか、東京にいても大丈夫なのか、と。余震もまだ多かった3月です。
ヨード、マスク、ガイガーカウンター、考えたことのないものが必要かもしれないと思われ、一気に店からもオンラインからも消えました。ミネラルウォーターも、電池も。計画停電もありましたから。
震災後のテレビの見過ぎと放射能の心配から私の神経が参ってきたので、3月後半に息子と二人で沖縄の妹のところに1週間旅に出ました。
飛行機の中は親子連れでほぼ一杯でした。全ての親子がシンとして、飛行機が無事飛び立つまで息を潜めていました。羽田空港は海辺です。飛び立つ前にまたあの大きな地震が来たら、という想像をみんなしていたと思います。
無事に那覇空港に着いた時、出迎えの皆さんも着いた親子たちも、涙だったように感じました。私たちを出迎えてくれた妹も、「あんなに悲壮感のある飛行機で迎えは初めてだった」と先日会った時も話していました。
揺れない大地とマスクを外して嗅いだ沖縄の柔らかい空気は、本当にありがたいものでした。
1週間過ごして英気を養い、乾電池をお土産に東京に戻り、4月からの一年はPTA副会長でもありましたので、子供達の安全のためにみんなで考え働きました。校庭の放射能量測定、生徒全員への学校ヘルメット購入の検討、避難所としての学校体制の見直し、子供たちの気持ちのサポート。
忙しくしていた方が怖くなくなる、そんな気分で過ごしました。
毎年3.11には「東北の誰かの役に立ちたい」そんな気持ちが高まるので、地元NPOさん宛にお茶菓子を送ったりしてきました。
今年は地震後に大学院で知り合った友人Mさんのユースセンター宛に、お茶とお菓子を一袋送らせてもらいました。
地元にすれば、まだまだ時間がかかることです。
忘れない、と私は思います。